『厚い信頼でチームを統率 危機を察知、高度な判断力』

  天皇杯2連覇で昨季を終えた鈴木啓太は短いオフの間、欧州へ旅に出た。スペインの土産話が鈴木らしい。フラメンコを鑑賞し、自分に通じるエモーションを感じ取り、「オレもやってやるぞ」と燃えて帰ってきたというのだ。

  「何でそんなに熱いんだと言われるけれど、僕にとってはこれが普通」。主将だった中学、高校時代は取り組み方を巡り同僚と衝突したと言う。「こっちは本気で全国大会、プロを目指しているんだから、遊び半分のやつはよそに行ってくれと言ってましたから」

  だが、実際は衝突というほどのことはなかったらしい。東海大一中の2年までと東海大翔洋高での3年間、監督・総監督として鈴木を指導した桜井和好は言う。「啓太の頑張りを見せられると、誰も文句が言えなかった。自然に『そうだよな』と従ってしまう。彼がいることでチームの団結力、闘争心が高まった」

  中学3年時には部員が48人に膨らんでいた。監督の平塚智は多くの選手にプレーさせようと2組に分けて試合に出た。その際、監督が帯同しない組には鈴木を振り分けた。「他の選手がまずいプレーをしたら、啓太がしかってくれましたから」と平塚は振り返る。

  東海大一中は全国中学大会で一九九〇年代(鈴木は九六年の主将)に3連覇を2度成し遂げた。トータルフットボールを唱え、ゾーンプレスまで教え、その礎を築いた桜井の指導は厳しかった。というより、うるさかった。

  例えば、相手のパス・アンド・ランについていけないことがある。桜井は試合中、そういう場面のたびに怒鳴り続けた。できるようになるまで怒声はやまなかった。「いい選手になるために絶対必要なプレーは、できるまで口うるさく教え込む」のが哲学だった。

  高校の3年間を含めて、桜井の熱烈でしかも理論的な指導を受けた鈴木は、危機管理に優れた選手へと育つ。桜井の表現は言い得て妙だ。「啓太はね、現れるんですよ」。相手が進出してくるであろうところへ、敵がパスを出すであろうところへ、つまり守備者が必要になるところへ。「中盤でのボールのにおいをかぎつける能力に優れている」と桜井は補足する。

  2列目から飛び出してくる選手に対し、マークを受け渡せないと思ったら自分でしっかり着いてくる。もっと危険な地域があると感じたら、マークを放して急行する。このへんの危機察知能力、プレーの優先順位をつける高度の判断力を備えた選手はそういない。

  この手の細かな貢献はピッチ外からでは見えにくい。「啓太の良さに気付くのは簡単なことではない」と桜井は話す。実際、浦和以外に加入を誘ったクラブはなかった。浦和にしても、当時の横山謙三ゼネラルマネージャーが他の選手を視察に行った試合で目をつけるまで、スカウト網には掛かっていなかった。

  心眼を備えたイビチャ・オシムが日本代表監督に就いたことは鈴木にとって幸運だったのかもしれない。信頼は厚く、オシム体制下の全8試合に先発出場。オシムが鈴木を評した「日本のマケレレ(チェルシー)」という言葉は掛け値なしのものなのだろう。