じっくり考え抜く。人生について、自分の本質について、もちろんプレーの選択について。ワイルドな容姿、狩猟を思わせる動きから想像すると意外だろうが、鈴木啓太(浦和、25)というサッカー選手のプレー、生き方は綿密な思考をもとに構築されている。
物事を深く考えるようになったのは、東海大一中(静岡)に入ったころだという。ライバルはみな才能を開花させ始めた。鈴木は体の線が細く、傑出した存在ではなかった。「足が速くて点が取れるわけではないし、体が強くて守備ができるわけでもない。自分は並の選手なのだと悟ったとき、ではどうやったら生き残っていけるんだろうということから、考え始めた」
答えは出た。「人のために走る」。1、3年時に日本一に輝いたほどの強豪だけに、能力の高い選手が多かった。自分の生きる道は、彼らに力を出してもらうためのサポート役に徹することではないか。穴を埋め、攻守のバランスを取り、ボールを奪い、単純にさばく。「人のために、というのが生きがいになった」
しかし、そんな地味な人生でいいのだろうか。「いや、これが結構楽しいんですよ」。浦和はリーグ屈指の才能の宝庫。個性豊かな選手たちが守備を気にせず勝負できるようにと、鈴木はバランスを取り続ける。究極のバランサーになることで、昨季のリーグ初制覇、天皇杯2連覇を陰で支えた。視点を逆にすると、派手な主役がいるから、鈴木は名脇役として特異な光彩を放つことができる。
中学時代に生きる道を見つけると、高校では人生の細かなプランを立てた。鈴木には大切にしている自作の年表がある。東海大翔洋高2年のときに、人生の目標を定め、書き込んだ。
例えば、二〇〇〇年、Jリーグ入り、1年目から出場。〇四年五輪出場。〇六年ワールドカップ(W杯)出場。一〇年W杯に出場し優勝。目標達成のためには何をこなし、どのレベルに達していなければならないかという付随情報も付いている。とにかく本人は本気なのだ。
きっちりした人間ゆえに、計画通り進まないといらだった。「これもできてない、あれもできていないと焦って失望した。でもいまは違う。計画通りいかないのが人生だと言う余裕がある」。変質したのは、〇四年アテネ五輪の代表から漏れてからだと自覚している。主将としてチームをけん引し、厳しい予選を勝ち抜いたが、山本昌邦監督はアテネ行きの最終リストに鈴木を載せなかった。
「夢はかなわなかった。でも、苦しい思いをして予選を突破したことで充実感があった」。そこで気付く。「大事なのは、目標に向かって懸命になることではないか。もちろん結果は本気で求めるけれど、計画通りにいかなくても落ち込むことはない。心の中に何か財産が残るのだから」
夢の年表をつくった男は、挫折の年表を突きつけられることにもなる。だとしても、いまの鈴木はひるまない。それもいい経験と受け止める。「まあ、最終的な夢はまだ追えているわけですし」。つまり、一〇年のW杯で……。
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